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「すきを生きよう〜ひしだみわ展〜」トークと交流会は中止になったけれど・・・



2月29日はトークと交流会の予定だったが、新型コロナウイルスの影響で中止した。

それでも多くの来場者があり、美和さんとお母さん在廊され来場者にそれぞれ対応された。

来場された高齢の男性が、鑑賞された後、わざわざ私のところへみえ、作品に心打たれたこと、この展覧会を少しでも多くの人に見てほしいことなどを話され、この展覧会を開催したことへのお礼まで述べていかれた。

しい言葉だった。

改めて彼女の作品が人の心に響く理由を考えてみた。

まだ幼くハンデも持ちながら制作したという点ではなく作品そのものの持つ力に注目してである。

訪れた人からよく聞いたのは、「色彩感覚」「純粋」という言葉だ。色彩の素晴らしさはわかる気がするが「純粋」とはどういうことだろうと改めて作品に向かった。

展覧会の副題に「すきを生きよう」とある。これは作者が、ただ「好き」というだけの理由で一心に色を塗り形を作り、ただ「好き」ということだけで生きる力を生み出すということか。

「ただ好き」というわけだけで作品が生まれるのだからそこには私心が入り込む隙が無いから純粋という言葉が生まれるのだろうか。

私心は思わくとか意図という言葉に置き換えることが出来る。

作品に意図が無いということは作品として成立するかどうか疑問を呈することも出来ようが、個人的には作者が作品を通して表現しようとする意図が正確に鑑賞者に伝わるかどうかはさほど重要なことではないと思っている。

鑑賞者は作品から作者の意図以上に、色や形、制作の背景、時代を覆う価値観等々を、己の持つ価値観とすり合わせながら作品からのメッセージを受け取るからである。すなわち意図を超越したところに価値を見つけるのである。

 

そうすると作者の意図はさほど重要ではなくなり、ともすれば意図は作為となり、底の浅さを露呈し、本質を隠し鑑賞を邪魔する場合さえある。

そこで作家はその作為を気付かれないようにしようともがく。

ところが今回の作者には「すき」ということ以外におもわくが無いから容易に作品からのメッセージをうけとることが出来るような気がする。

言い換えれば易々と懐に入りこみ心を揺り動かすのではないかと思う。

また作為のないものは本物であり、より本質をあらわにしているといえるし、より強く心を動かす。

そしてこの本質をあらわにしていることを「純粋」というのではないだろうか。 

 

展覧会は3月8日までです。

2020.03.01 Sunday | 21:41 | comments(0) | - | - |